専門医シリーズ

お産の「その先」まで見据えた支援を

専門医シリーズ14

伊藤 浄樹 医師

プロフィール

2002年 金沢大学医学部卒業、埼玉協同病院入職日本産科婦人科学会専門医

大学在学中にタイでのボランティアをきっかけにドイツへ留学。日本に帰国後改めて医師免許を取得し、総合的に診られる産婦人科医を目指して埼玉協同病院へ。ハードな日々のなかでもその人らしいお産をスタッフとともに進めている伊藤浄樹医師に、産婦人科への思いや看護力について聞きました。

難民支援をきっかけに医療の道へ

産婦人科医になって14年目だという伊藤医師。医師になったのは40歳を過ぎてからという、少し変わった経歴を持っています。きっかけは早稲田大学在学中に、タイ国境で難民ボランティアを経験したこと。今では大きな団体になっている日本国際ボランティアセンターというNGOの初期の頃でした。難民村で1年半ほど働いているうちにボランティアでなく、医療の道を志したいと思うようになり、20代後半の時、単身当時西ドイツの大学へ留学。医学部には日本人は一人だけでした。途中でお金が続かなくなり、3年ほど休学して西ドイツ国内で働きながら、計8年間を過ごします。自身では、英語は不得意だがドイツ語とタイ語、関西弁はちゃんとしゃべれると笑います。
当時は海外で医学教育を受けた人が日本の医師免許を取得することが現在よりも難しかったため、日本に帰国後、36歳で金沢大学医学部に入学しました。こちらも当時まだ学士入学の制度がなかったため、1年生からの学び直しとなりました。
人一倍学ぶ期間が長かった割に、「勉強嫌い」。
「大学何個か行ってるやつって、よっぽど勉強好きか、よっぽど嫌いなやつかどっちかですよ」と笑います。

産婦人科領域を診る総合診療医

医学部に入学した伊藤医師が最初に目指したのは総合診療医でした。日本ではまだあまり一般的ではなく、総合診療という言葉があるかないかという時期でしたが、ドイツではまず家庭医・かかりつけ医にかかってから病院に行く、というスタイルが普通でした。
そこで金沢大学の5、6年生の時、総合診療科の第一人者である、当時名古屋大学の伴信太郎先生(現在・愛知医科大学シミュレーションセンター長)のもとを訪れました。そこで伴先生が「産婦人科領域は診れない」と言うのを聞いて、それなら産婦人科領域を診られる医者が総合診療をやればいいんじゃないかと、産婦人科医になることを決意。
医学部1年生の時から石川県民医連の奨学生で、総合診療科をやるなら金沢の城北病院へ行くつもりでした。しかし伴先生の言葉で方向転換。城北病院には産科がなかったので、関東圏の民医連では規模の大きい埼玉協同病院に入職しました。
いざ産婦人科医になると忙しくて、産婦人科と総合診療2足のわらじなど、全くそんなことができるような状況ではなかったといいます。

医師不足のなか、地域の「お産の砦」を守る

いつお産になるかわからない産婦人科医は、当直だけでなく待機も必要で拘束時間が長く、ワークライフバランスの難しい仕事です。学生時代には、やる気があって、価値も見出せて産婦人科を志すけれども、いざ生活の質を考えると、これをずっと続けて体がもつんだろうか、家族とやっていくにはどうするんだろうかみたいなのは絶対あると思います。まず、なりたい人がいない。
そのため産科医不足が深刻で、全国的にも産科がどんどんなくなっています。全国の中でも医師不足の埼玉県では産婦人科医の高齢化も手伝って更に深刻です。産科を維持するには、ある程度の医師数、そして過酷な勤務に生活を合わせていく医師が必要なのが現状です。今、民医連では見るに見かねて他科の先生が途中から産婦人科になってくれるという例もありますが、少子化以上に産婦人科医の数は減り続けています。
埼玉協同病院では、常勤医が5人、後期研修医が1人、非常勤が2人、それ以外にも当直専門の先生が別にいますが、それでもたいへんな状況です。産科が存続できなければ川口市でも、お産難民が生まれてしまいます。それを食い止めるには後輩を育てるしかないと伊藤医師は初期研修委員も務め、後進の育成に力を注ぎます。現在58歳ですが、できるだけ元気で長く働いて、産科が継続されるところを見届けたいと語ります。

子どもを育てていけるよう支援を

医師が多忙ななかで、産婦人科にとって「看護力」の重要性はひときわ高い、と語ります。
産婦人科は世の中の縮図。精神科にかかっている妊婦さんや、経済的な困難を抱えた妊婦さん、家族との関係が良くない妊婦さんも少なくありません。単に病気を治したり、無事に生まれることだけが目標ではなく、子どもが育っていける環境かどうかという、とても大きな課題を抱えています。
スタッフは、保健センターと連携したり、健康保険などの社会保障も含めて相談に乗っています。精神疾患のある人や、家族や安定した仕事など社会資源がない人、シングルの人など、問題を抱えた人が社会に戻って子育てをしていくことになります。産婦人科スタッフは「どんな支援が必要か、すべてのことに関わることはできないが、どこまで支援できるかを考え、努力しています」と伊藤医師は語ります。
話を受け入れてもらえなかったり、せっかく支援をしても裏切られることもあるといいます。それでも手を差し伸べつづけるスタッフの仕事を、チームで関わっていくなかで後輩のスタッフもしっかりと見て、育っていく姿があります。

いのちが生まれることを喜び合う

今まで2000人以上の出産に医師として立ち会ってきた伊藤医師。人数よりも、長く続いていることが誇りだといいます。
新しい「いのち」が日々生まれる産婦人科だからこそある、独特の喜び。開設当初から父親・家族の立会いをすすめ、先駆的に帝王切開でも立会いができるようになって10年以上。その人らしいお産を大切にしてきました。
それぞれみんな違うからこそ、どんなお産も一つひとつ全部感動的です。一つひとつのいのちをいとおしむようにスタッフもお産のたびに喜び合います。
「やっぱり“この子たちのために”って思うから、頑張れるんですよね」と語る伊藤医師もまた、産婦人科の魅力に心つかまれた一人なのかもしれません。

祐川 志帆(助産師C3病棟看護科)

1人ひとりのスタッフのことを知っていて声をかけてくれる。卒1の時には、ちゃんと1人ひとりに違うコメントをくれるんです。
私には「頑張りすぎないでね」て書いてありました。私のことちゃんと見てくれているんだなととてもうれしく思いました。
休みの日、やせなくっちゃって一時間ぐらい歩いておられました。いつまでも元気で、笑顔の先生と長く一緒に働けると嬉しいです。

 

岩田 歩実(助産師C3病棟看護科)

産後の子育てが難しいと感じているお母さんに対して、ケアをどうしていくか一緒に悩んで考えてくれます。うまく連携ができてなかった時はちゃんと振り返られる姿も見ます。
私たちスタッフの、いろんな取り組みもまだ早いとかと言わずに積極的にやらせてもらえて勉強になることも多いです。
病棟を明るくしてくれる先生です。

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