あの日の広島1945年8月6日


父の仕事の都合で転勤もあり広島に来て2年目、私は小学校4年生だった。家族は8人、上の3人の姉兄は他県にて学生だった。当時通学していた中島小学校は2部授業になっていて上級生(5、6年)は本校へ、下級生はより家に近い場所の分校でとなっており私は近くの休業中のお風呂屋さんが学校だった。

朝ラジオの放送により敵機襲来のため空襲警報が発令され朝食後の家族は家の防空壕へ避難したがB29は岡山の上空に消えたとのことですぐ警報も解除になり、わが家の兄(小6)と私はすぐに登校した。兄は本校へ、私は分校のつるの湯へ、ランドセルは風呂屋の脱衣カゴの中に入れ授業前女の子ばかり6-7人と外へ出て石蹴り遊びをはじめた。しかし遊び始めて間もなく突然ピカッとするどい光をあび私はその場で気絶してしまった。どのくらいたったのかわからないが息苦しさを感じながら目を覚ました時、あたりはただまっ暗。何も見えなかった。何が起こったのか全くわからず少しがまんして目を開くと丁度よりが開けるようにうっすらと明るくなってきた。さらに周囲に目を向けるとなんと周りの建物は全て潰れていて私だけが一人つぶれたガレキの上にお座りしている状態だった。一緒にいたお友達も一人もいない。そのうちあっちからもこっちからも助けてー助けてーとつぶれたガレキの隙間から血だらけの人たちが這い出てきて、一つのかたまりとなり、行列となって吉島の飛行場方面へぞろぞろ逃げて行った。(これは後に分かったこと)私も我にかえりとにかくみんなの流れについていかねばと思い立ちあがり自分の体をさすってみた。右の頬に大きなこぶと右足の踵に貼れがあったが血を流すような怪我はしていなかったし、歩くこともできたのでこの人の群れについていこうと歩き出した。まもなくこのたくさんの人の中から私たちの行列の中に一人の真っ黒コゲの男の人がかきわけ私に近寄り「ゆっこ!」と言って手をつかんできた。誰だかわからない。しかし私のことを知っている人なんだと思い、この人と一緒に行こうと心に決めた。実はこの人は朝二人で登校した兄だった。兄はまだ中島小学校には着かず住吉橋の近くまで行ったところでピカッと光を受け半袖半ズボンの出ている部分の大部分を火傷した。顔も倍以上に膨らんでいたため、全く誰だかわからなかった。逃げて行く前方にたたずんでいる広島刑務所の高いコンクリートの塀がくずれておらずはっきり見た時は本当にうれしかった。途中右の本川に目をやるとあの満々の潮の満干がはっきりしている川面は真っ黒こげの人たちでギッシリ。仰向けの人、うつぶせの人で身動きもしなかった。

刑務所の通用門まで来て男の人は中に向って門番さん、開けてーと大きな声で呼んだ。中からやはり火傷した門番が出てきて顔をみつめ「貞夫君かい?」といいすぐに私と二人を中に引き入れてくれた。そこではじめて朝一緒に登校した兄であることがわかった。

門番さんはすぐに兄にやけどには刑務所の火鉢の灰と油をまぜて塗ると効果があると塗りあっていた。私は誰よりも母のことを思っていたのでつぶれた官舎の家々を見ていると長い黒髪をふりみだし右手に血だらけの弟の手をひいてフラフラと歩いてきた母をみたとき、生きていてよかったーと母と抱きあった。父は役所で執務中大きな机と書棚にはさまれ大腿骨骨折をし逃げ出すことが困難だったが迷い込んだ受刑者のひとりに助けられ無事だった。その後職員や受刑者の力で壊れた建物、官舎の修復病舎も建てられ怪我の父もやけどの兄もそこに収容され手厚い看護を受け家族は一人も命を奪われず市内の人には申し訳ない思いだった。
市内はすぐ火の海に何日も燃え続け焼け野原となってしまった。中心地から広島刑務所まで1.5km、広島駅まですっぽり見渡せた。近所のお勤めのお姉さんは無傷で元気に帰ってきたので皆大喜びしたが一週間たたないうちに下痢したり吐いたりして亡くなってしまった。また火傷したお姉さんの看病に市外から市内に入りただ市内を通ってきただけで先のお姉さんと同じ症状となり亡くなった人もいた。

特殊爆弾により全滅したまち広島は60年は草木も生えないといわれていたが翌年には生えてきた。その時はうれしかった。しかし見えない恐怖というものがいつもあったし私の身体はどのように蝕まれていくのか、あの時奇跡的に五体満足に助けられたのはうれしかったがあの時同じ状態で友達は全部亡くなり自分だけが生きているということ。私はこれから生きて行く上で何をどうしていけばよいか苦しんだ日もあった。

私たち被爆者はそれぞれ違った生活の中で被爆したがあの日以来受けた身体の傷も心の傷も深くいつまでも苦しみを味わってきたことは同じだと思う。あの時日本は戦争をしていた。多くの犠牲者も出した。国の責任だ。戦争は絶対あってはならない。核の廃絶と戦争のない平和な国づくりを追求すること。全ての人の願いである。被爆者も年々少なくなってきた。私も残り少ない人生を感じるようなった。いま必要とされていることへの協力、自分でできることは一つでもやらねばと思っている。故肥田俊太郎医師より被爆者は一日でも多く長生きせよ。目的をもって規則正しい生活をすることが被爆者として生きる上での要(かなめ)だと話されていた。

埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)
副会長 木内恭子(キウチユキコ)さん
埼玉協同病院元看護師

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