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患者、地域、病院をつなぐ
専門医シリーズ8
井合 哲 医師
プロフィール
新潟大学医学部卒。1977年埼玉協同病院入職。東京女子医大研修。埼玉協同病院入職(旧生協診療所)、外科勤務、日本外科学会 指導医。
家族とのつらい別れの中で「命の重み」を受けとめ、心に焼き付ける井合医師は、親の反対を押して自ら医師の道を選びました。直接命につながる医療活動でも、組合員や患者の命にかかわるさまざまな環境や社会制度の改善には妥協せず、人一倍強い思いを持って取り組んでいます。学生時代を通じて大きく育んできた医療生協は「自分の一部だから、技術も組織も組合員とともにもっと発展させてほしい」と心から話します。
命が財産
東京・大田区で産婦人科の開業医の次男として生まれた井合医師は、最初の受験戦争の時代を経験しています。父親は、二つ年上の兄に医者を継ぐように言ったことは一切なかったようです。しかし、兄は突然医者を継がなければと思い、当時でも私立の医学部は天文学的な学費のため国公立をめざします。その受験の最中、高校3年の時に亡くなりました。兄の遺体を見た父親は「しまった」と大声で叫びます。どこかで継いでほしいという素振りを見せていたのではないかと。
その後、1年たっても2年たっても両親の部屋からは夜になると泣き声が聞こえる。高校1年の井合医師は「命の重み」を強く心に刻みました。
両親は「命が何より財産だ」「浪人することはない」「医者なんか大変なだけだ」と執拗に言い続けます。それでも、その命に向き合い一浪して新潟大学医学部に入ります。同級生にはのちに一緒に協同病院に来る神谷君(前理事長)、市川君(外科技術部長)がいました。
「大学病院に負けない医療を」
卒業時、井合医師は「埼玉県は日本一の医療過疎 (現在も)で命を守る仕事が本当に求められている」と考える一方で「雪深い新潟から実家があるあったかい関東に戻りたい」との下心もありました。
当時、組合員さんを増やし、出資金を募り医療生協を育む活動のキャッチフレーズは「大学病院に負けない医療を」でした。卒業して2年間は「大学病院に負けない」どころか、小さな診療所だけで病院もありません。しかし当時の事務幹部たちはもう大宣伝していました。「最低でも外科は負けない医療にしなきゃ」と大学病院での研修を決意しました。
泣きながらの決意
2年間の研修先の大学には、埼玉の診療所でアルバイトする先生たちが指導医に何人もいて「あんなところ戻ったらおまえら何にもできなくなるぞ」と散々悪口を聞かされました。
そして、2年間ごくろうさま、来春からがんばろうという決意の協同病院の宴会の席でした。「胃がんの郭清※なんかできないって、大学の先生たちが言ってるけどどうなんです」と10年以上も先輩の医師に、問い詰めるように泣きながら聞きました。本当に不安で不安で仕方ありませんでした。でもここで、技術的にも負けない医療を一緒につくりたいという気持ちで、自分自身に決意を求めたのかもしれません。「うん、できないよ。だから君たちができるようになってほしいんだ」。怒りも見せず「だから勉強してほしい」と頼むと言うように話されました。スッと胸に落ちたことを井合医師は今も鮮明に覚えています。そして、亡きその先生を今も心から尊敬しています。
※郭清:がん周辺のリンパ節を切除すること
市川辰夫先生はすごい
外科医として、内科中心の埼玉西協同病院の院長などいろんな経験をしてきました。「でも僕どっちかっていうと政治部長です。同期の市川先生がまさしく技術部長です」と笑い、もともと小児外科をやりたかった市川先生の決意を回想しました。出生も減り始める中で、県立小児医療センターもあり、関東近辺には小児外科の拠点が何カ所もある。「自分の思いだけでは誰にも貢献できない」との思いから、市川医師はそこでスパッと切り替えて組合員さんや患者さんに目を向けます。安い酒で憂さを晴らす人たちに肝臓疾患が多く、そこで技術を磨けば貢献できると地域や患者さんのために肝臓外科の分野を専攻しました。「すごい人なんですよ」。
まねから始める
当時は、臓器別、疾患別のすみ分けが始まりかけていた時代ですが、外科全般と当時とても増えていたがんの治療も含めて、大学病院がやっていることをしっかり学んでまねて、標準的なことができ、危険のない医療を協同病院で実践しようとしました。
井合医師は、外科のいろんな橋渡しができるためにすべての臓器をみられる研修を1年間してきて、肝臓の市川医師とそれぞれが両方のことがやれるようにして、本当に大学病院の中身に追いつきます。最初の10年、20年間はその積み重ねで過ぎてきて、かなりの部分で追い越せたと自負しています
自分たちのめざす道
新潟がんセンターに研修に行った時、大学病院からローテーションで来ている先生たちが僕のことを非常にうらやましがっていました。「どんな手術も僕は見に行って手伝うんですが、大学から回ってくる先生たちは、あるレベルの手術までしか手伝いに来ない、見に来ない」戻っても行く先は決まっていて、それ以上のことを覚えてもやれないしやらせてもらえないからです。
「先生いいな、埼玉戻ったら見て覚えたこと全部先生がやるんでしょ。いいよな~うらやましいなあ」って。フリーハンドで開拓して活かせる場所があるのをすごくうらやましがられて、「自分は確かにいいポジションにいるよな」と思っていました。
人権を守る職員に
井合医師は、高校時代の同級生から独り暮らしの親の相談を受け、医療機関を見つけて仮入院してもらいましたが、すぐに帰ると大騒ぎしたと聞き、よくよく話を聞くと赤ん坊扱いの言葉づかいが原因でした。心無い一言が治療や療養の機会を奪うことを心に留めました。
井合医師自身も年を重ね、日頃の患者さんや組合員さんとの会話では率直でかつ対等に、その中にも人生の先輩に対する敬意をと心掛けています。
そして、患者さん自身が医療に参加し、治療を決めていくために「一般論として」「統計によると」などの難解な単語や専門用語はできるだけ避けています。
「患者さんと面談をしている若いスタッフや医者と同席してると、それ専門用語だからって必ず意地悪く指摘するように気をつけています(笑)」と言います
オールラウンドに診られる病院
井合医師はこう考えます。人としての病気を臓器別に分けることで有効な治療ができるのかは疑問ですが、専門分化し、医者も絶対的に足りない中で、協同病院では連携を保ち、いろんな技術を身につけて、いろんな手術もやれる1人二役・三役の力をつけることが求められると。
もう一つ大事だと思うのは、明日にも餓死するという大昔の貧困ではなく、雇用不安や生活保護基準以下での生活、差額ベッド料が払えないなど、社会的な困難にどう気づいてあげられるか。経済的側面からここでしか治療を受けられない新たな貧困層の方たちに、何でもできる、やってもらえる病院をつくる必要性です。民医連や医療福祉生協の基本的な視点を持つ専門医と、それを実践する技術とコメディカルを体系立て、オールラウンドに診る病院です。井合医師が必ずしも協同病院が臓器別では済まされないと思う理由がここにもあります。
顔の見える診察
「結局僕たちは、患者さんの顔見て活動しようってことだと思うんです。医療者として自分の技を磨くことは、それはそれで喜びです。ただその技術で患者さんが治って元気になって、余裕のある方は自分たちの病院を支える『出資金』出すよ、とか言ってくださるような医療をやっていこうということだと思います。僕はかなりぬけぬけと出資金をお願いしますよ」と笑います。
最後に自分にも言い聞かせるように言います。「患者さんを何とかしてあげたいっていう気持ちを持ち続け、『身近な病院で解決するための技術』って言うことが経営も含めて大事だなっていう気はします。やはり、どこかに紹介すれば済むってことじゃないんだと思います」。
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