専門医シリーズ

常に「患者が主体」 40年以上も前から 引き継がれる 医療生協さいたまのこころ

専門医シリーズ6

神谷 稔

プロフィール

老人保健施設「みぬま」施設長。1977年3月新潟大学医学部卒業 ・東京民医連 ・東京大学医学部附属病院にて産婦人科研修。1983年8月 埼玉協同病院着任。産婦人科開設に尽力。医療生協さいたま生活協同組合理事長に就任 10年以上在任し2015年6月退任。

大学時代には、民医連全体を見渡して、医師体制が困難だった県への医師派遣を学生自らが話し合って決めていたと言います。そのコンセンサスは自治会サークルの民医連研究活動にありました。「その中で意見が対立していたのが仲間うちにもいました」と笑います。 また、学生運動で対立して、論争していた相手にも、後年に医師同士として助けられたといいます。そうした経験から、若い医師たちにもレールに乗っかって、知識の聞きかじり、見かじりでやる研修でなく、人脈づくりを大切にしてほしいと願っています。 そんな神谷医師の医療への思いを語っていただきました。

僕なんかでいいんですか

高校を出てから自分の行く道を悩みながら23歳まで金沢で新聞関係の仕事をしていました。ある日突然、熊谷の小児診療所の小林盈蔵先生(後の埼玉民医連会長)が訪ねてこられました。「医者やってくれないか」。
小林ミツゾウ先生は、満鉄病院の小児科部長から一時帰郷された折に、父親たち熊谷の革新系の人々との交流で、「ここで診療所をやろう」と熊谷に帰られ、その後の先生とのふれ合いが、神谷医師の原点になります。
「子どもが病気するってことは、ご家庭の生活状態、両親の働いてる状態、友達関係、地域がどうなってるか、そこまで切り込まないと本当の医療じゃない」小林先生の口癖です。先生からそういう影響を受けていたからか「僕なんかでいいんですか」と素直に話したといいます。医者にしたかったけどお金のない父の意を汲んだミツゾウ先生。「何か二人にはめられたなって感じもしなくはなかった」と笑います。

「医者を上げる」


民医連の大先輩だった大島慶一郎先生も「患家は病室なり」と言い。診療所の机は患者さんの家に行く一つのツールだと言ってました。神谷医師が医者になる前の学生時代に、強烈なインパクトを残しました。40年以上も前から言われていたことが、自分を突き動かし、その後の医療生協さいたまでの臨床の中身そのものでした。
当時は、熊谷や秩父などでは、お医者さんに診てもらう時「医者を上げる」と言いました。畳の上に上がってもらうこと。それは、看取りの時でした。

自ら医師対策

卒業する時には、生協病院建設予定地という看板だけで建築も始まっていませんでした。入職を決めた仲間6人とは、内科を1人、小児科を1人、外科は3人体制にと決め、どういう診療をやろうか話し合っていました。仲間の1人は国家試験直前の土壇場で、口説きました。口説いた以上は、危なそうな国家試験も一発で通ってもらわなければとみんなで援助しました。神谷医師自身も、必要とされる専門分野の分担で婦人科関係となりました。

心配してくれる教授

それを教授に話すと「君らつるんで行くのはいいけど、あそこで何の研修するんだね」と聞かれました。心配になって教授の何人かが見に行ったようでした。「誰が研修医を教えてくれるんだ。病院としての基礎は。スタッフはどこにいるんだ」と当たり前のことを聞かれました。
大学から紹介された、東大の小林タクロウ先生も民医連をすごく理解してくれていましたが、病院が立ちあがってすぐ来られて「ここでまさか蛙のお産をするわけじゃないよね」っと冗談を言われました。5月か6月頃でゲコゲコうるさいぐらい鳴いてました。

採血を覚えろ

神谷医師は大学の研修・勤務の時から、組合員さんの力を借りて「ここに戻って産科をやりたい」という班会を二百カ所以上で開いてもらいました。田んぼだけが広がる近辺の家を「僕たちがやるから建ててくれ」と回りました。その人たちが、その後患者で来て「あなた方はまだ注射一本できないだろうから、血を取ることと注射することを覚えろ」と自分から腕をさし出してくれました。医療生協ならではの大きな財産だと思っています。
産科の立ち上げと同時に「地域が産み育てる」と言うフレーズを作りました。その主体者が誰かという「が」にこだわって。妊婦さんが地域という場所でお産をするのじゃないと言って。

新卒と70歳の助産師

当初の常勤助産師は、助産学校を卒業したばかりで、右も左もわかりません。小豆沢病院でやってた「おばば」と呼ばれていた人と、もう引退と言ってた鳩ケ谷に住んでいた「おばば」の友達も引っ張り出して。当時すでに70歳ぐらいでした。5人10人の予約でスタートしました。周りには家もない、妊婦さんなんかどこを探してもいない。でも、翌々年には200人を超えて、6年たたないうちに年間1000件になっていました。やっている内容がわかればスタッフも集まってきます。

立会いも、母子同室も

うぶ声学校も、立ち会い分娩も、母児同室もみんな最初から立ち上げました。一般的には、まだ分娩室は男子禁制で聖域。不潔になる、危険になる、お産は女性がやるもの。日本の伝統的概念を打ち破るとご意見も頂きました。「お産は家族の一単位だけじゃなく、親せきも含めて一大イベントにしなきゃいけないんだ」と理解を求めました。今では当たり前に受け入れられています。

お任せでない医療


奇跡の奨学生
当院で出産、現在医学生で
当法人で奨学生となった天笠君

大島慶一郎先生は「お任せしますってことはねえだろう」「どういう状態か聞いて、あなたが決めるんだ」ってよく言っていました。民医連医療の原点。まだ「自己決定権」という言葉はありません。 神谷医師の父親も決して「こうしなさい」というティーチングはせず、提案型のコーチングをしました。患者さんは今でもよく「お任せします」と言います。お医者さんというと雲上人で、神からのお言葉になってしまうと戒めます。 「医療ってのは確かに技術だけども、人と人とがわかり合えたときに先生お任せしますって言葉はなくなる。お願いはあるかもしれないけど」

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